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モンゴル旅行

名称
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日時
2018 年8月1日から7日
場所
中国内蒙古自治区、2019年宮崎県
料金
未定

長年の念願であった内モンゴル自治区のノモンハンへの旅を実行しました。

2018年8月1日(水)福岡国際空港からか北京空港経由でハイラルに入りました。大分駅を出発したのが9時30分。ハイラル到着が23時30分。実に14時間かかりました。一行は11名(女性6人、男性5人)です。スルーガイドは劉鉄昌さん(大連から)、現地ガイドは張志男さん(ハイラル)、バス運転手は蒋万貴さん(ハイル)。ホテルは呼倫貝爾嘉世豪大酒店(五星クラス)。

8月2日(木)。ハイラル市の伊敏河に架かる鉄橋を見に行く。この鉄橋はソ連軍の進攻を恐れた日本軍によって爆破され今は断橋と呼ばれている。断橋の上流に新しい橋が架けられている。橋を眺める地点一帯は公園になっていて戦争に関わるモニュメントが置いてある。日本人女性と幼子の「望郷の像」もあった。また当時のハイラル市内に設置された日本軍の施設を示す案内板も作られていた。見学後、専用バスにてハイラルから南下してアルシャン市へ移動。約500キロ。市の手前でハルハ河支流の杜拉璽川を見学。この川の下流でハルハ河に合流する。ハルハ河はモンゴル共和国と満州国との国境となっていた(日本側の主張)。アルシャン駅を見る。アルシャン駅(旧名温泉駅)は旧満鉄が建造した駅で日本軍(関東軍)の補給路を支えた拠点である。旧鉄路には機関車の転車台が残っている。今は使われていない。また駅の周辺には旧日本軍の高射砲台が残っていた。外にも幾つかあるらしいが探したが見つからなかった。これらはソ連軍の爆撃に備えてのものである。この日は阿爾山海神温泉大酒店に泊まる(五星クラス)。温泉が出るので立派な観光地であり北京などから夏休みを利用して列車や自家用車で旅行に来る中国人観光客が多い。夕食時にこの日誕生日を迎えた房前百合子さんのお祝いをする。夕食後、町を散策。蒙古のお酒(馬乳酒)、乾燥キノコ、果物など珍しい食品が数多く並んでいた。

8月3日(金)バスでノモンハン方面に移動。約150キロ。将軍廟跡に建てられたノモンハン戦跡陳列館を見学する予定であったが現在リニューアル中で閉館。陳列館前の大きな風鐸のモニュメントを見る。周辺の草原には模型の戦車や飛行機が置いてあり、その側で放たれた馬が数頭草を食んでいた。しかしよく観察すると草に埋もれた戦車を発見。すでに茶色に錆びて上部しか見えないが日本軍のものかソ連軍の物かも判然としない。売店で買い物をした後阿穆古朗(アムコロ)の東旗五角酒店(3星クラス)に入る。

8月4日。朝食後、バスで甘珠爾(カンジュール)廟に行く。チベット仏教(ラマ教)のお寺である。ノモンハンの戦記にも良く登場するお寺です。草原の向こうに堂々としたお寺の建物が見え始める。この付近もノモンハン戦では激戦地で日本軍はこの寺を接収した。ひと際大きな白亜の仏塔が見える。新しいものである。お寺の入り口近くにお寺の紹介があり、その中にノモンハン戦のことが写真入りで詳しく載っていました(カンジュール廟日本軍堡塁群紹介)。また境内の周囲を注意深く見るとコンクリート製のトーチカ(重機関銃堡塁)が幾つか点在し見張り台(哨所)、倉庫なども確認できました。お寺は立派で幾つも建物がありました。その中の一つにはモンゴル人の崇敬を集めるターラ菩薩(女性)もありました。ターラ菩薩は観音の涙から生まれたと言われている。次に少し移動して鄂温克(エヴェンキ)民族博物館を見学。清朝時代には満州族に協力した勇敢な騎馬民族。昼食は伊敏鎮で牛肉のシャブシャブ。午後はハイラル市に戻る。ハイラル市のホテルは最初に泊まった呼倫貝爾嘉世豪大酒店です。夕食はホテルのレストラン。このホテルにも中国人観光客が大勢来ていました。食後はホテルの周りの売店を見て回りました。

8月5日。ハイラル市の旧日本軍の戦争遺跡の見学。ハイラル市郊外の世界反ファッシズム戦争ハイラル記念園に行く。ここは23師団の地下司令部のあったところ。見どころは地下に作られた旧関東軍地下要塞、すなわち軍事トンネルである。このトンネルは膨大で縦横に作られ、ある場所では数キロ先まで延びていた。トンネルを作るために中国の南方の労働者を動員した。完成後、中国人労働者は全員殺された。唯一人生き残った中国人労働者の証言でこの事実が判明した。

市内に戻って23師団司令部の建物を探した。建物はハイラル市駅の直ぐ近くに位置していた。緑の屋根、三階建ての堂々とした重厚な建物。現在はハイラル市の消防関係の事務所として使用されている。旧ハイラル駅舎も見つけた。1903年の石造りの二階建て建造物。当時の駅名は「海浪」。ハイラルは蒙古語で「野蒜」の意味。ロシア語のハイラルを中国人が「海浪」と訳してしまった。旧寺田公園は「ソ連紅軍烈士陵園」となっており、ハイラル市の戦闘で戦死したソ連軍兵士の大きな慰霊碑が立っている。

夕食は趙双河さんの招待。ハイラル市出身の趙双河さん(モンゴル族)は別府大学に留学して卒業後福島県の大熊町で働いていました。2011年の3月11日に発生した東北大震災の当日、奥さんと生まれた長男を中国に帰国させるために成田空港にいました。飛行機は飛んだのですが彼は福島に帰ることが出来なくなり友人の家を転々としました。1年後に奥さんだけが日本に戻りました。避難場所を求めて大分市に来ました。大分支部では彼ら夫妻の世話をすることになり交流が始まりました。1年後に勤めていた会社が会津若松市で再開したのでそちらに戻りました。短い交流でしたが大分支部の親切が忘れられずハイラルに来たときは恩返しをしたいとの希望がありました。私たちが知り合って7年余が過ぎていましたが、ここで嬉しい再会となり夕食に招待してくれたのです。

夕食の会場は政府関係者が使用する特別のホテルの中庭に設えたパオの中での宴会でした。これは趙双河さんのお兄さんと姪御さんの世話によるものです。お兄さんはハイラル農業極局(政府機関)の上級幹部、姪御さんは利用したホテルの経理(総責任者)です。宴はモンゴル式の歓迎の挨拶、ブルーのマフラー(カタ)を首にかけてもらい、お酒をいただく様式。自己紹介の後、用意されていたモンゴルの民族歌謡、民族楽器(馬頭琴)の演奏、舞踊などが披露されました。テーブルの上には珍しいモンゴル料理が山のように並んでいます。お兄さんは「弟が皆さんにお世話になった、このことはお礼を言い尽くせない」と挨拶。お兄さんの連れ合いはプロ顔負けの歌い手。美しい声を披露してくれました。一行からはお返しに「会津磐梯山」、杜甫の「春望」の朗詠、「ふるさと」を皆で歌いました。珍味の料理を食べ、42度の銘酒を頂き、煙草好きの人には高級幹部しか手に入らないタバコも提供され、夜の更けるのも忘れる大宴会でした。

8月6日。午前中、内モンゴル高原で最も美しいホロンバイル高原の一角にある大湿原、エルグネ(額璽古納)湿原を見に行く。中国人観光客も大勢来ている。聞くところによるとアジア第一の湿原とも言われている。湿原の彼方に興安嶺の山並みが見える。澄み渡った空気の中で高原には色とりどりの残植物も咲いていた。

午後はダールジリン寺(達璽吉林)の見学。この寺の地下近くまで関東軍のトンネルが延びていた。寺は新しい建築物。周辺には日本軍の哨所跡、砲台の遺構などが残っていた。最後の見学はハイラル国家森林公園。広大な敷地で市民の散策場所にもなっている。茹でた羊肉の夕食を早めに済ませて空港に向かう。11時半の飛行機で北京に向かう。深夜、北京空港に着いて、そのまま空港近くのホテルに入りました。

2019年11月14日~15日。国内旅行(宮崎県)

14日朝に大分駅前を出発し一路高速を南下して宮崎県へ。延岡から高千穂を目指す。好天気に恵まれ高千穂は観光客が多い。アジア系の人びとも。高千穂のレストランで昼食。まず高千穂峡一帯を散策。紅葉もあり美しい景観に満足。次に神話の世界を訪ねて天岩戸神社に行く。足を天の安河原に延ばす。神社から約15分。夜は居酒屋で懇親会。翌日も快晴。国見ケ丘に行く。阿蘇の風景をいつも見るのと逆の形で遠望。この日のハイライトは槙峰鉱山跡に建てられた中国人強制連行労働者の慰霊碑への参拝。大分支部としては2回目である。途中道を失って、今日の解説を頼んでいた延岡の日中友好協会の水長さん(門川市の共産党市議)に連絡して無事到着。槙峰鉱山の歴史に詳しい福田鉄文さんも来ている。彼には『宮崎の戦争遺跡』、『私たちの町でも戦争があった」の著書があります。主として山東省から強制連行された中国人労働者は多くがこの銅鉱山の過酷な労働で死亡しました。彼らを祀る慰霊碑に参拝し延岡に向かい帰路に着いた。